プロフィール
戸田亮のプロフィール
戸田翻訳サービス 代表
戸田 亮(とだ
あきら)
関西外国語大学卒業。米国マイクロソフト社(音声認識システム開発チーム所属)、
株式会社ウィザス勤務を経て翻訳者として独立。戸田翻訳サービスを運営している。
自身の英語学習経験、英語講師としての指導経験から、
社会人が効率的に英語を習得する方法、キャリアに活かせる英語を身に付ける方法をメルマガを通じて配信。社会人の英語習得を支援している。
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ブログ フィデリティー翻訳
■兵庫県生まれ
戸田亮は、1972年12月14日に
兵庫県で生まれました。
それから、どんな生活をして育ってきたのかについて
こちらで公開したいと思います。
■田舎町で生まれて育つ
僕の実家は、現在は宍粟市になりましたが、数年前までは宍粟郡でした。
その中の小さな田舎町で、なんと電車も通っていないようなところです。
移動するのは大人は車、子供は自転車という典型的な田舎町です。
そんな田舎町ですので、子供のころは近所の友達といっしょに山や川に
いって遊んでいました。当時はまだテレビゲームなんて、ほとんどありません
でしたから遊びといえば外で遊ぶしかありませんでした。
山に登ったり川で魚を捕ったりというのがいつもの遊びです。
■何事も中くらいだった小学生
小学生のときには親の薦めで少林寺拳法の道場に5年間通っていました。
武道や格闘技は今でも大好きでK1グランプリなんかは必ず見ていますが、
少林寺拳法の練習にいくのは正直なところイヤイヤでした。家でテレビでも
見ていたほうが楽ですからね。それからサッカー少年団にも入りましたが、
他のメンバーと比べて明らかに走るのが遅いので、どうにもならずに
1年でやめてしまいました。
しばらく学習塾にいったこともありますが、あまりできない子供たちのクラスに
入れられていました。学校の成績は平均程度でした。勉強するという
習慣がなかったので、平均以上は無理だったと思います。
■部活だけだった中学校
中学校は家から徒歩で10分程度の場所にある地元の学校でした。
ほとんどの生徒が小学校と同じメンバーだったので、何も代わり映えのしない
感じでした。
中学校では何を思ったか卓球部に入部してしまいました。
毎日毎日部活ばかりの毎日だったように思います。今でこそ卓球も
市民権を得ていますが、当時は卓球部というのは「オタク」というイメージの
強くて、あまりかっこいい感じではありませんでした。
成績はというと、団体戦で郡大会は優勝、郡大会より大きい地区大会も
いつも優勝、県大会で敗退というレベルでした。
ほとんど我流で練習してたわりには、まあまあかなと思います。
■ぐうだらしていた高校時代
高校生のときには、特に部活動もせず、毎日をぐうだらと過ごしてしまいました。
中学校のときに部活がしんどかったので、高校では楽をしようと考えて
しまったんですね。
朝起きて学校に行き、家に帰ってテレビを見て寝る。という毎日です。
自分ながら情けない・・・
とにかく、田舎町から出て行きたいという気持ちが強くて、そのためには
大学に行くしかないと思っていました。田舎で高校を卒業して、すぐに就職したら、
もう残りの人生は田舎で過ごすしかないように考えていました。
そこで大阪に府枚方市にある関西外国語大学に行くことにしました。
電車すらない田舎からでは大阪まで通うことはできないので、大阪に
住むことになるのが理由です。なぜ外国語を選んだかというと、実は高校のときに
数学と英語の成績だけいつもよくて、他の科目はぜんぜんダメだったので、
選択肢があまりなかったんですね。
■カラテ一色の大学時代
大学で一人暮らしをはじめた僕は、子供のときからあこがれていたカラテを
始めることにしました。とりあえず大学にあった空手同好会に入ってみたのですが、
それが僕の人生に大きな影響を与えることになる正道会館の支部だったんです。
とにかく、毎日、カラテばかりやっていました。
同好会の練習は週に3回だけなので、残りの日は天満にある本部道場に
いって練習していました。週末には極真カラテをやっている友達と自主練習でした。
大学で何をやっていたかと聞かれたら、もうこれしか答えられないくらいです。
就職活動すらしませんでした。
その理由は、大学を卒業したら留学をしたいと考えていたからです。
■念願かなった留学時代
その目標が実現したのは、卒業後1年たってからです。1年間警備員の
アルバイトでためたお金をもって、ニュージーランドにワーキングホリデーに
出かけました。
これは僕にとっては英語を身につけるという目的もありましたが、
度胸をつけるという目的が大きかったです。だから、日本を離れるまえにした
準備といえば、往復の航空券を買うことと、到着後にとりあえず宿泊する
ユースホステルを予約したことだけでした。
定番の「地球の歩き方」すら持たずにいったんです。
ニュージーランドでの出来事については、メルマがでおいおいお話しますが、
とにかく遊びまくった1年間でした。もちろん、勉強もしましたが、
ロッククライミングをしたり旅行に行ったりと、とにかく遊びまくりました。
このときに、どういうわけか、「よし通訳の仕事をしよう」と考えたのです。
通訳になるには、もっと本格的に英語を身につけなければならない。
そのためには、アメリカに留学しなければ!!という考えで、
ワーキングホリデーを終えて日本に帰った僕は、また1年間アルバイトを
してアメリカに留学しました。
■勉強づけのアメリカ留学
留学先はワシントン州シアトルにあるコミュニティーカレッジです。
コミュニティーカレッジというのは日本でいうと専門学校や短大にあたる学校です。
本当なら4年生の大学に行きたかったのですが、大学に行くには
家が建つほどのお金がかかるため断念しました。もちろん、結果的には
正しい選択だったと思います。
専攻はビジネスインフォメーションテクノロジーという学科でした。
何を勉強したかというと、ビジネスの基本事項と基本的なコンピュータの使い方です。
単位のために数学や理科の授業もとりましたが、英語で勉強するのは
時間のかかる仕事でした。
■アメリカで就職
卒業するときに、アメリカの就職サイトであるmonster.comに履歴書を
載せていたところ、マイクロソフトの仕事があるから面接を受けてみないか
という電話がかかってきて、どきどきしながらマイクロソフト本社に面接に行ったのです。
面接は日本人とアメリカ人を相手に行われ、みごとに採用になりました。
仕事は音声認識システムの開発チームでシステムのテストをすることでした。
コンピュータの知識も必要ですが、日本語ができることが必須条件だったので
僕が選ばれたわけです。
マイクロソフトで働いていると、市内バスはすべてタダで乗れる顔写真入りの
社員証をもらえるので、かなり得意げな顔をしていたと思います
マイクロソフトの仕事はやりがいのあるものでしたが、そろそろ日本に帰って
腰を落ち着けようという考えになり、日本に帰国しました。
そして、学習塾で英語と国語を教えながら翻訳の勉強をして、機械やコンピュータを
専門とする翻訳者として独立し、戸田翻訳サービスという翻訳事務所を運営する
にいたったのです。